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〜安曇野を流れる拾ヶ堰〜

拾ヶ堰が流れているところ
   北アルプスの山岳を背景に緑豊かな田園風景を醸し出し、清らかな水が流る通称「あづみ野」と呼ばれる美しい景観を有する地域の中央を、満々と水をたたえ緩やかに西の高い山の方へ向かって「拾ヶ堰」水路は流れています。

拾ヶ堰の役割
   拾ヶ堰は、松本市島内地籍の奈良井川から取水し、梓川の川底を伏越して、安曇野市穂高地籍の烏川に流入するまでの延長約15km、幅約12m、水深約2m、平均勾配1/3500の水路構造を有して、安曇野市一帯の穀倉地域約1000haをかんがいしているこの地方第1の大型水路である。

拾ヶ堰の開削のあらまし
   松本領安曇平(現在の松本市、豊科町、堀金村、穂高町、三郷村に関わる地籍)は、肥沃な平坦地にもかかわらず、水利の便が悪かったため江戸時代後期まで開発が進んでいなかった。「水さえあれば水田を増やし、村を豊かにできる」という開発に、大きな役割を果たしたのが拾ヶ堰の開削であった。
 この計画をした者は、柏原村(現・穂高町)庄屋中島輪兵衛、吉野村(豊科町)庄屋等々力孫一郎などの有志であった。彼らの苦心は、東に位置する奈良井川の安定した水源を、西から東に向かって傾斜する烏川扇状地の原野にかんがいするために、出来るだけ水路を高い位置までに引き上げることにあった。
 文化9年(1812年)、輪兵衛らは本格的な調査・計画に入り、工事の材料や必要な人夫を計算するなど綿密な計画を練り上げた。そして、松本藩の許可を得て、工事にとりかかったのは文化13年3月、工事完了したのはその3ヶ月後という突貫工事が行われた。この工事は、延べ6万7千人の労力と816両の経費を要した。

拾ヶ堰と地域のかかわり
1) 拾ヶ堰通船・・・嘉永2年(1849年)には、旧松本町と堀金、柏原の山麓の村々と物資の流通の便を図った拾ヶ堰通船が通っていた。拾ヶ堰の流れが緩やかなために舟運には適していたが、途中にある幾つかの橋と上樋がその運行の妨げになっていた。
2) お盆の精霊送り・・・かつて、拾ヶ堰は送り盆の仏様を送る水路になっていた。8月16日の送り盆の朝、拾ヶ堰の端の人々は、盆だなにお茶やご飯をあげ、その後お菓子やてんぷら、スイカ、トマトなどのお供え物を里イモの葉に包んで拾ヶ堰に流した。前日に堰の水量を減らしてあるので、子供たちは川の中に入って流れてくるお菓子や果物を競って拾った。夕方、送り火をたいて仏様を送った後、花や白樺の皮等で飾った麦わらの舟を作り、「ノノサマはみんな乗ったぜ、ひもを放せ」などと言って、舟をつないでいたひもを一同に放すと舟はゆっくりと流れ、橋の上や土手から流れ去るノノサマに「来年おじゃれ、さらい年おじゃれ」などとやさしく声をかけた。今では、川を汚さないために、これらを流すことはない。
3) 川での遊び
●夏の水遊び・・・夏の間、拾ヶ堰の近くの学校では、岸につかまってのバタ足練習、橋から飛び込み、川に潜り底の石を拾い上げるなど、この川を利用して水泳を楽しんだ。
●冬のスケート?冬は子供たちのスケート場と変わり、鼻緒のついた下駄スケートを足につけ、白い息を吐きながら滑った。
●魚とり・・・堰のそうじ(せんげざらい)をする時は、水を止めて川底を干す。このとき、子どもたちは川底にのこる鯉やフナ、ドジョウ、エビ、カニといった動物をとりあった。
●子ども相撲・・・拾ヶ堰の土手には、堰そうじで柔らかな砂が沢山上がり、この砂で土俵を作って、子どもたちがよく相撲をとった。隣村の子どもと対抗試合もした。
 このように、子どもたちにとって、遊び場としての拾ヶ堰は切っても切れない存在のようであった。

参考文献?拾ヶ堰工事誌(長野県松本建設事務所・奈良井川改良事務所、土地改良のしるべ第433号(県土地改良連合会)

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